まず、この本結構良かった。
おすすめ度99%って感じ。
同じようなタイトルの本「神との対話」が、最も好きな本だけど、この本もいい。
さすがに、「神」と出しちゃうだけあって、神さまの言葉って感じの内容が盛りだくさんだった。
それも、神との対話と言っている事は同じでも、視点が少し違っていたりして、また新たな発見があったり、気づきがあったりした。
僕は、常に「人生は舞台だ」と思っている。
自分が主人公で、他のみんなは脇役やエキストラで出演してくれている。
世界の中心が僕だ。
と、言っても、それは、全員に言える事であって、「自分の世界の中心は自分」って事なのだ。
世界というのは、一つではなく、星の数ほど、いやいや、とんでもない数、というか無限に存在しているのだな。
なので、他の人の舞台にも、僕は同時に出演している。
身近にいる人の舞台には、脇役として、通りすがりの人の舞台には、まさに通りすがりのエキストラとして出演しているのだ。
なので「嫌なやつ」というのが舞台に現れても、舞台の中では「嫌なやつだ!」と言いながらも、本当は役者仲間なのだということを分かると、結構冷静でいられるのだ。
と、こんな風に常に思っているのだが、ここから本の気づきを加えてみる。
「なぜ、その脚本にしたのか?」
ということを考えてみる。ということ。
脚本は、舞台を面白くするために書くのだが「なぜ、そのシーンなのか?」と考える事はなかった。
だが、ちょっと立ち止まって考えてみるのだ。
「なぜ、この嫌な奴が現れたのか?」「なぜ、こんな嫌な出来事にしたのか?」
そこには、明確な理由が存在しているはずなのだ。
それら、全てが、その先のシーンへと繋がる重要なポイントである事は間違いなく、舞台を盛り上がらせるための演出であるのだが、そのシーンである意味と、繋がっていく先の展開までも考えてみる必要がある。
先の展開が考えられていなければ、今のシーンはないのだから。
と、そんな風に考えてみると、今、何が大切なのかがわかってくる。
本当の舞台では、筋書きは先の方まで大まかにはわかっている。
だから、現状のシーンの何が大切なのかは、当然分かる。
しかし、人生においては、先の筋書きが予測できていない場合が多い。
そうなると、今、なぜ、こうなのか?ということを、考えなければ、今をどうすればいいのかがわからなくなってしまいがちだ。
先へつながる脚本にしていなければ、映画のテイクの用に、何度も何度も同じようなシーンを繰り返さなければならなくなってしまうのだ。
なぜなら、先へ進めないから。
そうなると、舞台は面白くなくなってくる。
ハリウッド映画を観ていると、だいたいストーリー展開は同じで、通常の状態から、何か問題が起こって、主人公がチャレンジして、でも上手くいかなくて、ギリギリのところで復活して、最後は上手くいくってパターン。
いわゆるジェットコースターだ。
人生も面白くしようと思ったら、ハリウッド映画やジェットコースターに学べばいいのだ。
上がったり、下がったり、時には回転したりして、そんな人生なら、役者も観客も面白い。
売れる映画になる。
売れる映画は、有名にもなるし、興行収入も多い。
人生も同じだろう。
今、ちょいとコーヒーブレイクで、カフェオレを作った。
と偉そうにいうが、ミルクにインスタントコーヒーを入れただけだけど。
レンジで温めて、スプーンでくるくると回して、インスタントコーヒーを溶かそうとしていたのだけど、カップの周りをグリグリするだけだと、真ん中の粉が溶けにくい。
台風の目と一緒だ。
中心のグリグリ速度は緩やかで、静かだということが見て取れる。
やっぱ、真ん中ってのは穏やかでいいものだ。
「他人に振り回される」というけど、それは、カップの隅の方に行ってるってことだな。
他人の舞台の上で懸命に演じているんだろう。
それを、ちゃんと自分の舞台を演じているんだという意識を持つことで、他人の舞台の上で「振り回されているように見える役」として演じることができるし、その出来事は、自分の舞台において意味をなすのだ。
とりとめのない話になったが、まあ「神様とのおしゃべり」著:さとうみつろう氏は、いい本だったということを言いたかったわけですな。
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