山の逆側にひっそりと佇む小さな神社へミソカモウデ(三十日詣)

ミソカモウデ(三十日詣)を始めて、もうどのくらいになるだろうか?
『神様とのおしゃべり』と言う本を読み、そこに書かれていた。
それから実行している。

元々、神社や寺は好きだし、中学の頃にはプロテスタントのキリスト教会にも通っていたことがある。
とはいえ、宗教は好きではない。
ただ『神』と言う存在がなんなのか知りたいと言う好奇心は大きい。

一神教と多神教

50年生きてきた今のところの結果として、世界中の宗教が一神教なのに対して、神道は多神教。
僕は、この多神教である八百万の神(やおよろずのかみ)的な考え方が気に入っている。
海にも、山にも、川にも、大地にも、どこにでも神さは存在すると言う考え方。
さらには、人さえも神としてしまう強引さもあるが、結局のところ『神』とは、世の中で言われているような絶対的な完全完璧な存在なんかではなく、人間とは少し違った霊的な存在というだけなのではないだろうか?
だから、ずっと遠くのはるか彼方にいる、自分たちとはかけ離れた、あまりにも偉大すぎる存在なのではなく、もっと身近なものと思っても良い。

ただ、言い換えると、神道では『山の神』と神という字がつくが、西洋ではそれを『天使』とか『妖精』と呼び、神とは別物だと考えているというだけとも言える。
その上で、最も頂点に君臨する存在を『神』と定義している。
そうした天使や妖精のような存在は、一神教の宗教では神とは認められない。
神はあくまでも、一つの存在である。
その点、神道では、いろんなものに『神』という名をつけ、崇める対象とした。

宗教の意味

人は弱い。
神にすがりたくなるときもある。
そんな時、一神教の宗教は、皆が同じ一つの神を崇める。
その神は、遥か遠くの偉大すぎる存在であるが故に、その正体に近づこうとも、解明しようとも思わない。
宗教運営としては好都合である。

その逆に、神道の八百万の神では、大きすぎる存在はなく、身近にある神社で、身近にある自分たちだけの小さな神様に拝む。
それは、その地域の当主様のような存在と言っていいだろう。
偉大な遠くの神の方が力があるように感じる、しかし、願いが叶えられるのは宝くじに当たるようなもので、ほとんど叶えられることはなく、有名な言葉「父よ、なぜ私をお見捨てになったのですか?」をいうハメになる。

神道のお願いはというと、まあ、もちろんそれも叶えられはしないが、そもそも、神でなければ叶えるようなことをお願いするということが、間違いとも言える。
ただ、神社で手を合わせ祈る時、本当の願いというものは、ほんの少しの運やほんの少しの助け、ほんの少しの偶然を期待するものであることが多くはないだろうか?
訳もわからず神の名を使い、訳のわからない願いをし、その結果何も起こらず、それゆえ「神を信じます」などと言いながら、ちっとも信じていない、さらに、罪を犯しながら簡単に「懺悔」などと言って許されると思っている人種とは違う。

日本の独特な宗教感

日本人が神道と共に長年歩み続けて出来た日本人という存在は、分不相応な願いをせず、自分自身の努力を怠らず、結果を天任せにせず、天に向かって唾を吐くようなことはしない。
なぜなら、神という存在は、どんな願いも叶えてくれる魔法使いではなく、その場所を、そこに暮らす人々を見守る存在に他ならないからだ。
魔法のようなものなど使わず、ただただ見守る存在。
そして、人々は、ほんの少しの手助けや、ほんの少しの運や、ほんの少しの偶然を与えてくれるかもしれないという些細な願いを祈る。
さらに、何かを成し遂げた際も、驕り高ぶることのないように、それを成し得たのは『神さまのおかげ』として、謙遜し謙虚でいられるようにと、祈るための存在でもある。
むしろ、その方が大きいかもしれない。

そういうわけで、毎月一回、ミソカモウデに行く。
僕は、手を合わせて、何かを願ったことはない。
ただただ、自分の人生を感謝するのだ。
自分の運の良さに、自分の恵まれた環境に、自分の素晴らしい未来に。

新田五社大神

8月から『新田五社大神』という神社へ行っている。
ここは、山を降りたところにある神社ではなく、山の裏手にある神社。
実は、同じ山にある神社なのである。

今までは、山を降り、集落を抜け、商店街に入ったところにある、この辺りの氏神様へお参りしていた。
しかし、Google Mapを見たところ、もっと近く、しかも、同じ山の中に神社があることを発見。
それが『新田五社大神』だった。

ただ、集落で言えば、山の反対側の集落となり、交流は全くと言っていいほどない。
それでも、名に見えない霊的な部分で考えれば、こちらが僕にとっての氏神様と考えるのが自然だろう。

ここは、今までの神社と比べたら、小さく、ひっそりとしていて、人もおらず、忘れられた神社のよう。
ただ、この地区の人たちによって最低限の管理はされている。

賽銭泥棒

先月、賽銭箱の異変に気がついた。
賽銭箱の鍵が壊されており、さらに、追加で付けられている鍵も断ち切られていた。

こんな場所で賽銭泥棒など、いったいどんな人間なのだろうと疑問に思う。
もっと、人の多い地域ならともかく、こんな場所へ来るのは、地元の人か、神社マニアくらいしかいないのではないか?

しかし、地元の人ということは考えられないように思うし、神社マニアがやるはずはないようにも思える。
しかも、こんな神社に来る人も少なければ、賽銭の額も微々たるもの。
鍵を壊すためのワイヤーカッターの方が高額だろう。
そう思うと、賽銭泥棒を本業とする輩の仕業だろうか?
わざわざ、こんな山の中の神社へ出向き賽銭泥棒をしてもガソリン代の方が高くつくようにも思えるが、、、。

それでも賽銭を入れるか入れないか?

賽銭の額が多ければまた狙われるかもしれない。
割に合わないと思われれば来ることは無くなるかもしれない。
迷ったが入れることにした。
賽銭は、誰かが回収しているだろうから、賽銭泥棒よりも早く回収してもらえれば問題はない。
それに、そうそう頻繁に賽銭泥棒は来ないだろう。
なんせ、しょっちゅう来ても割に合う額は入っていないだろうから。

願いは叶う、願わなければ

神社に行って『お願いをする』というのはよく聞く。
しかし、お願いして、それが、見えざる手によって叶うことはない。
この世の中で、願いを叶える方法には、法則がある。
その法則通りにことを行えば、必ず叶うようになっている。

それは『思考・言葉・行動』の三つ。
この中で『お願い』というのは言葉だが、その言葉を発する前に思考がある。
思考の中で「叶わないこと」という前提のもとに『お願い』とすれば、それは叶わない。
逆に「叶う」と思っていることは願わない。

叶わないと思っているのに叶うと思えないのは当然なのだが、そこで、行動が重要になってくる。
叶うために行動をし続ければ、徐々に結果に近づいてくる。
結果に近づくと「叶うかもしれない」という思いに至る。
さらに行動し続けることで「叶う」と思えてくる。

だから神社に行って『お願い』をしても叶わないが、「叶う」と思っていることを感謝することはできる。
自分の努力のおかげだと思っていれば感謝などしようもないだろうが、努力の上に見えざる手の助けがあったのだと思えば、感謝したくなる。
よって、神社に行って手を合わせて、心の中でつぶやくのは感謝だけということになるのだ。

-MARK'S LIFE:日常