もう一つ、坂村真民記念館で読んだ詩について。
この詩、読んだ瞬間に「嫌だな」という思いが走った。
でも、そのあとに「しかし、これが真実だ」とも思った詩。
僕は、いつも「自分のため」に生きてきたと思う。
もっと言えば「自分のためだけに生きてきた」とっても、自己中心的主義な生き方をしてきたと思える。
しかし、自分を擁護するつもりは毛頭ないが、振り返ってみると、その自分のために前だけを向いて突っ走ってきたことが、あとから来る者たちにとっての道しるべになっているような気もするのだ。
僕としては、「あとから来る者たち」のことを考えて生きるのは、正直言って嫌だ。
だけど、自分の信じた道を突っ走って、後ろなんて振り向かずに、気にせずに、一心不乱に、一所懸命にまっすぐ走っていけば、そこには、それに続きたい人にとっての道ができるのではないかと思う。
「人のことを考えて行動する」
これは、素晴らしいことだと思う。
だけど、それでは、大したことはできないような気がするのだ。
文化を作っていく、文明を改革していく、時代を切り開いていくためには、人の意見を聞いたり、人の顔色を伺ったり、人のためを考えたりして生きていっては、出来ることも出来なくなってしまう気がする。
もちろん、他人のことは知らない。
僕自身は、そう思うというだけなのだ。
僕は今、一人で山に居る。
誰のためにも生きていない。
ただ、ひたすら自分の欲望を実現するためだけに生きている。
だけど、それが、結果として、あとから来る者たちのためになるような気もしている。
僕たちは、今を生きているのも、先を生きた人たちの後を生きている。
道路があり、家があり、服があり、電気があり、そうした物のほとんどは、今、造られた物ではなく、先人たちが造り上げてきたものだ。
そして、今の僕たちが造り上げているものも、先人達が造ってきたものと共に、あとから来る者達へバトンを渡していく。
結局は、そうして世の中は流れている。
そして、僕たちは死に。
それから、また生まれる。
生まれた時は、遠い昔のことは忘れてしまうが、確実に、自分たちがやってきたことの上に生まれるのだ。
今、未来につなぐものとして、環境破壊や心の貧しさを広めれば、自分たちが、また生まれ出てきたときには、そんな世界が待っている。
今、未来につなぐものとして、美しい世界や心の豊かさを広めれば、また、生まれてきたときには、素晴らしい世界に生きることができるだろう。
僕は、この山にいて、この先どうなっていくのかはわからない。
しかし、僕がやったことは確実に、次の世代に引き継がれていくことは確かだと確信する。
それは、僕がやっていることや、やり遂げることは、他の人たちにとっても、やりたいことであるだろうし、やり遂げたいことであると信じているからだ。
だからと言って、人のことなどは考えてはいない。
自分のことだけを考えて、前だけ向いて突っ走る。
それが、結果として、あとからくる者たちへのギフトになるだろう。そう確信している。
-----