東京にいて「豊かさ」ということについて考えると、それは、今まで手に入っていないものを、お金の力で買うことによって得るもの。という考え方でいた。
豊かとは、物質的に豊か、精神的に豊か、空間的に豊か、時間的に豊かというカテゴリーに分けられて、お金で買えるものが多くを占めているが、お金で買えないものは数少ないが、豊かさとしては重要な要素を占める。などという結論に達していたりした。
しかし、山に来て、こうした考え方が間違っているわけではないが、こういうことを論理的に考えたり、文章にしたり、枠にはめて決めたりするのは、豊かさを実感していない証拠になってしまうなぁ。と思う。
ここにいると、”ふっ”と、「あ〜、豊かだ」と思えることが、ちょこちょこある。
それは、お金で買うとか、買えないとか、全然関係がないことで、いつでも感じられるし、お金というのは、そこらへんになっている柿とか、落ちている栗とかと同じ感じで、アイテムの一つでしかないように感じるので、買うとか買えないとかいう発想がなくなってくる。
外でご飯を食べているとき、お風呂に入っているとき、他の人が協力してくれるとき、誰かが会いに来てくれるとき、何かをもらったとき、あったかい湯たんぽを抱えたとき、いろんなときに「豊かさ」を感じることができる。
それは、とても「幸せ」に通じている道だ。
人がなぜ生きているのか?
いつも考えるけど、答えはわからない。
でも、きっと、ずっと思ってきたことだけど、漠然と「幸せを感じる」ことが目的にあるように思える。
その幸せへの道の一つに、豊かさがある。
だから、人は、豊かさを求めるのだろう。
そして、その豊かさの多くは、お金がもたらしてくれると信じている。
僕も、そう思っていた。
けど、お金がもたらしてくれる豊かさの方が少なくて、そうではないことの方が多いんじゃないか?と、今は思っているのだ。
今日も、薪で炊いた五右衛門風呂に入りながら、「あ〜、なんて豊かなんだろう・・・」と、感じていたところだよ。
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