<ズラリと並んだ消防車。ワクワクするなぁ>
昨夜は、新人団員と幹部団員の消防訓練だった。
分団の詰所に集まって、訓練が開催される広場まで、消防車で向かう。
日が沈みかけている状態で、赤色灯を回しながら走っていくと、周りの景色が赤くピカピカと光る。
それをみると、自分が緊急車両に乗っているという実感がわき、気分が高まる。
赤色灯のついた車というのは、やっぱり特別な存在感があるものだ。
子供の頃、多くの男の子が、パトカーや消防車に憧れたように、僕も憧れていた。
少年の頃には、ちょいと悪さをしていたせいか、この赤色灯が目に入ると、なぜかドキドキしていた。
消防署で「砥部町消防団」と書いてある活動服と呼ばれるものをもらって、本日、初着用。なんとなく、ちょっぴり自分が特別な人になった気分である。
警官などが偉そうなのは、きっと制服やパトカー、そして腰につけた拳銃のせいなのだろう。
なんとなく、他の人たちとは違った、特別な人間になったような気分になるのが、わかる気がした。
制服というのは、本物ではなくても、消防でも、警官でも、自衛官のものでも手に入れることはできる、そして、それを着て歩いていても違法ではない。
着るだけで、ちょっぴり特別な存在になれる気がする。
しかし、赤色灯を点灯させて公道を走るというのは、緊急車両にしか許されておらず、まさに特別。
そして、警官が拳銃を腰につけるというのは、日本では、きっと最大級の特別な行為である。
よく「警官が偉そうなのは国家権力の後ろ盾があるからだ」と言われるが、今日、僕は思った。
警官が偉そうなのは、腰につけた拳銃のせいなのではないか?と。
さて、消防訓練は、どんなことをやったのかというと。
ま、訓練といっても、田舎の消防団の、さらに新人さんなので、当然大したことはやってない。
気を付け、休め、右向け右、回れ右、敬礼!
とか、そんな程度だ。
ただ、大人になると、それも、自分が経営者だと、こうしたキビキビとした行動を、自らの意志ではなく、他人の指示で行うという機会はほとんどない。
僕の場合は、20代の頃、丸八真綿の営業をやろうと思って行った、十日間くらいの軍隊式研修以来だった。
その時は、ラジオ体操をするのに、手の指先もビシッと伸ばして、キビッキビッとやらされていたのだが、その時にやったラジオ体操は、ダラダラとやるラジオ体操の何倍も体に良い効果があったのだ。今でも、覚えているし、実践している。
こうしたものに参加するのは、人生に対してなんらかの影響を与えるものだ。
昨夜の消防訓練でも、軍隊や学校のように、命令されたり、怒られたりすることはなく、あくまで基礎基本をボランティアの皆様に教えるという程度に留まってはいるが、それでも、こちら側が積極的に求められる以上のことをしていけば、こうしたところで教わることは、自分の人生を豊かにしてくれることに繋がっていくはずなのである。
そんなことを思いながら、二時間の短い訓練を終えた。
人生とは、経験の積み重ねの上に成り立っていくものであるが、何をやったかということよりも、それらをどういう意志で気持ちでやったかというところが大きい。
最近、Youtubeで中村文昭さんという方の講演会の音声を聞いた。
このかたがしきりに言っているのが「なんのため」ということ。
なんのために勉強するのか?なんのために働くのか?そして、僕もよく若い人に言うことだけど、なんのために生きているのか?
こうしたことを意識しながら、考えながら生きていくのと、そうではないのでは、人生を積み重ねていくにしたがって大きな違いが生まれるのだと思うのだ。
僕はしょっちゅう思っているのだ「自分は、なんのために生きているのだろう?」と。
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