毎月30日は、ミソカモウデ

『神様とのおしゃべり』という本がある。
そこに、ミソカモウデ(晦日詣)についての記載がある。
毎月、30日に神社にお参りに行くことである。

この本を読んでから、多少は欠かしたが、それなりに毎月ミソカモウデを行っている。
晦日(30日)でなくても、昔から神社にはよく行っていた。
出掛けた先で、神社を見つけると、必ずではないが、それなりにお参りをするということは常だった。

僕は、神道が大好きなのだ。
神道の何がいいのかというと、やっぱり『八百万の神』である。
漢字では『ハ百万』と書くので、8,000,000の神が居るように思えるが、実際には『万物全てが神』という考えである。

宗教の大前提というのは『人は神ではない』『人と神は別物』ということ。
人と神が同じだと言ってしまうと、宗教は成り立たない。
神主でさえ「人は神ではない」と言ってしまう。

しかし

『万物すべてが神』であれば、人も神なのだ。

よって、僕は、神社に行って、何に対して祈っているのかというと、主に自分の中の魂に語りかけている。
もちろん、万物全てが神と考えれば、自分以外の様々な神が居るわけで、その土地を守る神などもいるだろうから、自分だけに意識を向けるわけではない。
ただ、『人と神』ではなく、『神と神』の対話の方がスムーズにいくのではないかと思い、まず、自分の魂に意識を向け、自分の魂から他の神に語りかけるようにしている。

キリスト教は十字架、仏教は仏像が祭壇に飾られている。
では、神道はと言うと『鏡』である。
それも、凸面鏡。

これが何を意味するのかといえば、鏡が神ではなく、『鏡に写るものが神』ということだ。
鏡には、そこにある存在の全てが写る。
これら全てが神だということである。

人も含めて、存在の全てを神と定義したくない人々は、神社に掲げられる鏡を、神話に登場する鏡から飾られることになったと言うかもしれない。
神話とは、天照大神が天の岩戸に隠れたときに、出てきてもらうために考えたのが、天照大神の光を鏡を使って反射させ、びっくりさせて、出てきてもらったと言う話。
詳しくは、『古事記』で検索したら出てくる。

僕は『鏡は万物を写し、全てが神である』と言うことの象徴だと思っているが、それを「間違ってる!」と言う人もいる。
しかし、何が正しいとか、間違っているとか、僕にとってはどうでもいいことで、

僕は、僕の考えを持っている

と言うだけなのだ。
人から、間違っているとか言われる筋合いはない。

Youtubeでも、木の伐採や、土木作業など、いろいろなことを配信しているが、それに対しても「間違ってる!」とか「○○した方がいい」とか、とにかくうるさい連中がいる。
それは、その人の考えであって、僕の考えとは違うと言うだけだ。
とはいえ、大概、人の意見などと言うものは、自分自身の経験の中で培われたり、深く考えたり、実験や検証を繰り返して得た結果から導いたものなどではなく、次の三つである。

一、聞いたり見たりして、それが正しいと信じるようになったこと
二、誰かから指示または享受され、それを行っているうちに、当たり前に正しいことだと信じるようになったこと
三、多くの人が同じ意見であり、同じ行動をしているため、それが正しいと信じるようになったこと

一は、主に報道でしょう。
・テレビで行っていることは正しい。
・有名人や権威のある人が言っていることは正しい。
・繰り返し、報道されているから正しい。
とまあ、こんな具合。
『自分で調べている』と言う人もいるし、『調べろ!』とか指図する人もいるが、ほとんどがネット検索や書籍から情報を得ているだけで、特に何も変わらない。
もちろん情報は大事で、ネット検索や書籍を読むことは重要だと思う。
ただ僕が言いたいのは、何が「世の中の正しさなのか?」ではなく、「何が、自分にとって正しいのか?」を見極めることが重要だと言いたい。

二は、僕が山仕事をしている関係で、林業従事者や土木作業者、建築関係者から意見をいただくことがある。
ただ、林業や土木、建築というのは、ほとんど趣味で行うものではなく仕事だ。
仕事というのは、自分で何かを産み出そうとして始めるものではなく、最初から最後まで、細かい点に至るまで、すべての権限を持って行えることではない。

仕事は、発注者がいて、発注者の意向に従って行う。
さらに、作業員は、会社や団体の決められた規則に従う。
会社や団体は、法律や行政の指示にしたがって行う。
よって、自分たちで決められることは、日々の小さな作業の一端だけなのだ。

僕は、作業をするときの多くの時間は、ヘルメットをかぶらないが、一般的には、現場内では常にヘルメットの着用が【義務】とされている。
そのため、ヘルメットをかぶるのは、初めから『当たり前のこと』として疑わない。
行政や会社、法律は、「作業員の安全を守るためにヘルメットの着用を義務化している」という。
このことに疑問を持つ人は皆無だろう。

しかし、本当にそれが本心かというと、僕は違うと思う。
僕は会社経営を長くやってきて思うことは、ヘルメットは作業員を守るものでもあるが、人身事故が起きて困るのは会社も同じ、さらに、大きな事故は行政の管理の責任とか、法律の甘さと言われることを防ぐために、結果、末端の人々に【義務を課す】ものだと認識している。
ヘルメットは、正直言って、作業の邪魔だ。
危険か安全か?100%安全など無いにしても、『この作業は危険度が高い』とか『この作業は危険度が低い』ということは、現場の人々はわかっているはず。
にもかかわらず、すべての作業でヘルメットの着用を義務化している。

それでも、『現場というのは、どこに危険が潜んでいるかわからない』という人がいる。
それなら僕は不思議に思うことが一つある。

なぜ、車に乗るときにヘルメットをかぶらないのか?

「車でヘルメットなんて、過剰な安全対策だろ」という人がいるだろう。
でも、サーキットではヘルメットをかぶる。
「サーキットと一般公道では危険度が違うだろ」と言うかもしれない。
では、一般道と、高速道、サーキットでは危険度が違うのなら、作業現場においても、危険度の違いによってヘルメットの着用・非着用を判断してもおかしくないだろうと考えるのが普通なのではないだろうか?
しかし、すべての作業で、着用が義務なのだ。

「作業現場は、サーキットと同じで危険度が高いためだ」と言う人がいるかもしれない。
それは、作業をやったことのない人が言う言葉としか思えない。
サーキットでは、車を運転する人はヘルメットをかぶる必要があるが、その以外の時には、かぶる必要はない。
しかし、作業現場では、作業をする人だけでなく、その場にいる人もヘルメットをかぶらなければならない。

完全な安全対策をすると言うのなら、サーキットでは、どこにいてもヘルメットをかぶる必要があるし、作業現場では、どこにいても危険だと言うのなら、上部のみしか覆っていないヘルメットではなく、車やバイクのようにフルフェイスのヘルメットを着用するべきだろう。
そして、公道においてもヘルメットが不要だと言うことは決してない。

ちなみに、シートベルトは、公道では着用が義務化されていることは誰もが知る所だが、それでは、なぜ、バスに乗車した際はシートベルトを着用しなくても良いのだろう?
電車にも、シートベルトはない。
しかも、バスも電車も、立って乗っていて良いとされている。
安全第一を考えるとすれば、あまりにも危険だと思える。

その反面、高速バスにおいては、高速道路走行時は、シートベルトの着用を強制される。
これは、一般道と高速道の危険度に差があるためだと考えられる。

しかし、いくら一般道でも、バスの立ち乗りはいかがなものかと思うが、それを言ってしまったら、バスに乗れる乗車人員が減ってしまい、その分、採算が取れなくなる。
そうした点は、結局、『お金』が基準にあるのだ。

世の中を見渡してみれば、どこでも『お金』が動いている。
最低でも、僕が物心ついたあたりから今までの間に感じてきたことは、親も学校も、お金について教えてくれないし、お金の話はタブーになっているし、お金のことを考えたり調べたり話したりすれば「あいつは卑しいヤツ」と言うレッテルを貼られると言うイメージだ。
それは、きっと、多くの人たちが感じていることだと思う。

だが、世の中は、結局、お金が中心にあって動いているものなのだ

誰かが決めたルールの裏には、常にお金が動いている。
それを、国民のためとか、従業員のためとか、あなたのためだとか言われて信じている人々であふれている。

そうして、三、となる。
みんなが同じような考えになってくると、それが『正しいこと』になる。
そうなってしまえば、もう反論することも、反発することもできない。
制度を作った人や、それらを広めた人、権力者や行政などではなく、一般人が反論に反論するようになるからだ。

だから、「それって、おかしくない?もう一度、よく考えてみようよ」などと言ったところで、聞く耳など持たれない。
徹底的に、潰されて終わり。

でも、僕は、昔から、多くの人たちと意見が違う。
そのために、あまり友達はできない。
自分が経験し、徹底的に考えて考え抜いて行動する。
そこから導き出される答えは、ほとんどの場合、多くの人たちと意見が異なるのだ。

だから、「お前は、間違っている!」と言われてしまう。
論戦をしても実際には勝てない。
なぜなら、相手は多数派だからだ。

それに、相手は、僕と同じ経験をして、同じように考え抜いた人ではない。
多くの人は、自分の経験に基づき、どこかで得た知識を足して、イメージして答えを出す。
結局、話をしても、実体験とイメージではまるで噛み合わない。

今までの人生、他人と無駄な議論などせずに、自分の世界の中で生きてきた

正直なところ、今までの人生において、あまり議論をしたことはない。
議論をしても勝つ見込みもなく、勝つ意味もないからである。
単に、無駄な時間を過ごすだけだと考えてきたし、今でもそうだ。

結局のところ、この世の中は、多数派が勝つ構造になっている。
すべては、多数決で決められる。

だからと言って、世間から離れて生きるわけではないが、でも、僕は、山奥でポツンと生きている。
ミソカモウデの話から、ずいぶんと外れてしまったが、まあそう言うことで。

-MARK'S BRAIN:思考, MARK'S LIFE:日常
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