大都市TOKYO

TOKYOに来るたびに思う。

「なんで、こんなに人がいるんだ?」

そして、今回、一歩進んでこう思った。

「なぜ人は、同じ場所に集まって来て、ぎゅうぎゅう詰めになりながら生きているのだろう?」と。

先日の夜、打ち合わせをしていた横浜のスタジオから、千葉へ帰る途中。

山手線に乗った。時間は、ちょうど夜七時。

久々に、超満員ではないが、満員電車に乗った。

なぜ、苦痛を感じながらも、このぎゅうぎゅう詰めの電車に乗るのか?

なぜ、高額な住宅ローンを組んで、狭い土地を買って家を建て、この地に住もうと思うのか?

これだけ多くの人がいる場所で、周りを見渡しても、友人などいない。

孤独なのに、なぜここにいるのか?

他へ行けば、もっと孤独になると思うのだろうか?

僕は、山へ行ってからよく聞かれる「寂しくないですか?」

僕は、まったく寂しくはない。

山にいて「孤独」を感じたことはない。

孤独は、東京にいた時の方が感じていた。

すぐそこに、人がたくさんいるのに、誰ともコミュニケーションを取らない方が、とても孤独を感じた。

山では、ほんの五分車で走れば、知人はたくさんいる。

通りすがりに車を止めて、会話を交わせる人たちはたくさん出来た。

だから、山にいても、まったく孤独ではないのだ。

それに、都会にいた時よりも、より鮮明に神の存在を感じるのだから。

東京に限らず、どこでもほとんど同じだが「集落」を作って暮らしている。

それは、もちろん、一人で生きるには限界があるし、協力しあった方が、お互いにメリットが大きい。

その集落が大きくなり、都市になる。

都市では、お互いを知らなくても、多数のメリットを享受できるようなシステムになっている。

しかし、そこには、見えざる黒い影も存在している。

人が集まれば、少なからず、影はできる。

人の数が多くなればなるほど、影も大きくなる。

その影に潜む者たちも多くなる。

資本主義社会では「資本家」と「労働者」という構図がある。

影は「資本家」から始まっていることは間違い無いだろう。

電車で、ぎゅうぎゅう詰めになっているほとんどの人たちは「労働者」だ。

家賃や住宅ローンを支払っているのも労働者だ。

資本家は、ぎゅうぎゅう詰めにはならず、家賃をもらい、住宅ローンによって稼いでいる人たちだ。

多くの人たちが、搾取されながら都市に住むことが不思議でならないのだが、そこには、植えつけられた幻想があると、僕は思っている。

この世界は「完全な資本主義社会」で、お金で買えないものは「愛」とか、なんとかくらいしかないのだ。という幻想。

だから、収入が減る田舎に行ったら、生きていくことができないという幻想。

田舎は不便で、都会は便利という幻想。

都会には多くのものがあり、田舎には何も無いという幻想。

お金がなければ生きて行けない、お金があればなんとかなるという幻想。

しかし、山&ど田舎へ行ってみた僕は思った。

ほとんどお金がいらないので、収入はものすごく少なくていい。

結局、お金の半分は、国や行政に取られる。

そう思うと、得るお金、使うお金は少ない方がいいと思ったのだ。

さらに、最もお金がかかる住居費は無い。

住宅ローンもなければ、家賃もない、駐車場代もいらない。

都市でなければ、十分に生きていくことはできないという幻想が、不安や恐怖をもたらし、人を都会に縛り付けている。

TOKYOは、世界の中でもとてつもなく大きな都市だ。

今までは、それは、すごいことだと思っていた。

発展している大都会、世界に誇れる大都市東京だと思っていた。

しかし、今では、単に不安な人たちでいっぱいの巨大集落。

そして、そこに堂々としながらも、人々に気づかれないように潜む、富を吸い上げていく一部の人々。

さらに、今日も、夢の実現を求めてやってくる若者たち。

その若者たちのほとんどは、いずれ、不安な人生を送りながら搾取される側になるのだ。

都会は、そこに住む理由を明確に持つ者だけが、不安に苛まれずに生き残ることができる世界。

都会に生きる理由の明確ではない人たちは、是非とも、田舎に行ってみてもらいたいものである。


via Mark な 人生



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