雌花と雄花と、男と女

ズッキーニが出来始めてきた。
ズッキーニは、一日に一輪か二輪花が咲く。
雌花の根元は、ふっくらとふくらみがあり、これから実がなっていくことがわかる。
方や雄花には、ふくらみはなく、真っ直ぐな茎になっている。
そのため、パッと見ただけでわかりやすい。

花が一輪だけ咲いている場合、その花は、交配せず朽ちていく。
近くに、別の苗があり、ちょうど良いタイミングで、雌花と雄花が揃い、そこに、ハチなどの交配を助ける虫が来て、どちらの花にも入れば、見事交配完了である。

そのため、自然交配を待っていると、多くの雌花が交配できずに朽ちていく。
ズッキーニだらけにすれば、花がたくさん咲き、そこに虫も集まり、雌花も雄花もたくさん咲き、交配する確率は飛躍的に向上するが、個人的な畑の場合、ズッキーニの苗は、二、三本あれば十分であるから、そこに咲いている花も少なく、虫が来てくれる可能性は低い。
多くの畑は、雑草も生えておらず、畑には、単一種を並べて植えていて、そこに、数輪しか咲いていないのだから、虫にとっても来るメリットはあまりない。

そのため、ズッキーニを栽培する時は、人が受粉をするというのが一般的になっている。
僕も、初めは、人が受粉をするということを知らず、雌花の下にふくらみを見つけると「おっ、ズッキーニができるな」と期待したのだが、しばらくすると朽ちてしまっていることを残念に思っていた。
それから、人がやらないと、なかなか、虫がやってはくれないことを知り、今では、せっせと受粉作業を行っている。

同じ苗からできるのに、、、

受粉作業をしていて、ふと疑問が湧いた。
同じ苗から、雄花と雌花が出ている。
同じ苗から、わざわざ、両方を出して、それを虫が媒介するという仕組みが無駄に思えた。

なぜ、わざわざそんなことをするのか?
同じ苗から、雌花も雄花も伸びるのであれば、受粉などという面倒なことはせずに、そのまま実がなればいいではないか。
なぜ、そこに交配などという行為が必要なのだろう?

そう思ったら、人間も同じように思えてきた。
なぜ、受精などというものがあるのだろう?

女性一人で、希望する時に妊娠することが出来ないのだろうか?
どうして、目に見えないほどの、小さな男の細胞が必要なのだろう?

生まれる時に、わざわざ、男か女かどちらかに偏って、二者択一するということに意味があるのか?
別に、両性でいいのではないか?

二人一組の意味

そんなふうに思ったのと同時に、わざわざ、男女を分け、そして、その後、男女を繋ぎ、二人一組というスタイルにすることの意味を実感した。
宇宙には、そして、地球にも、一人・一匹・一輪で、生命として確立し、子を生み育て、種を繋いでいくことができる種族は存在する。
だが、二人一組、さらに、三人一組、四人、五人と、集まることによる意味がある。

それも、男女という同じ種の中の異なる存在同士が集まる。
そして、子が生まれると、同じ種の中でも、古い者と新しい者がグループを形成する。

こうした集団の意味は、聖書の言葉を思い出させる。
『二人でも三人でも、私の名の下に集まるところには、私もその中にいる』

僕は、もう長いこと一人で暮らしている。
16歳からなので、33年になる。
33年の間には、人と暮らした期間が何年かあるが、多くは一人だ。

聖書の言葉にある『二人でも三人でも・・・』というのを見ると、「一人じゃダメなのかー」とよく思った。
まあ、『私は、あなたと共にいる』というのもあるので、一人でもいいのだろうが。
それでも、やはり、人はチームを形成することに意味があり、それは、二人で二倍、三人で三倍ではなく、可能性はそれ以上である。

『性格の不一致』

よく、離婚理由で語られることだが「性格が一致してたら結婚している意味はないだろ」と、僕は常々思っている。
『独身は半人前、結婚して一人前』と言われるが、人は、生まれてくる時に、完璧な形ではなく、半分の形で生まれてきているように思う。

それが、ズッキーニの花と同じで、一輪で完結せずに、半分づつ別々の存在になって世に出て、そして、なんらかの方法で出会い、一つのものを生み出していく。
このことに、しっかりと意味があるのだと思う。
ズッキーニは、自らの種をただ反映させるだけなく、虫たちに花粉を分け与えるのはもちろん、我々、人間にもその意味を伝えようとしている。

しかし、人間は、その意味を理解せず、単に、人の手によって受粉させ、出来た実を取っているだけなのだが、本来は、虫がしっかりと受粉を助けられるように周辺環境を整えることの大切さを学ばなければならないのだろう。
人は、人だけで生きているのではなく、植物も、虫も、動物も、それだけでは生きられないことを、ズッキーニは、世に伝えようとしていると思えるのだ。

チームの強さ

僕は、ビジネスにおいて、チームを形成する時に心がけていることがある。
それを『ゴレンジャー人事』と呼んでいる。

ゴレンジャーは、赤・青・黄・緑・桃という五色で構成され、それぞれが、その色にあった性格を持っている。
こうした色は、『オーラ』と同じだ。

人をチームに入れるときに「この人は何色か?」ということを見極めようとする。
もちろん、完全に『赤』とか『緑』とか、はっきりした色を持つ人はまれで、さらに、チーム環境によっても色は変化するので、見極めはしにくいが、基準の色のようなものはある。
それを見定めてチームの色が配分されるように構成する。

一見、『黄』とか『桃』とか、無駄なように思えることがあるかもしれないが、実際には、大きくチームに貢献しているものなのである。
どうしても、個々の能力を見てしまいがちだが、チーム全体で見れば必ず必要な存在なのだ。

僕自身、22年間の会社経営人生において、このチームの強さを実感してきた。
チームの色が揃っている時は、ビジネスは順調に回転する。
しかし、どんなに優秀な人材が揃っても、色が揃っていないと、まったくうまく回らないのである。
このことは、嫌というほど実感してきた実体験なのだ。

人生ゲーム

同じ苗から伸びる雌花と雄花、生まれてくる時に二者択一して男になるか女になるか選択しなければならない人間を含む動物たち。
一見無駄に見えるのだが、これは、とっても重要な、人生ゲームの一環なのだと思う。

ズッキーニは、周辺との共生を生み出し、人間を含む動物は、チームの力を試す。

夫婦でも、家族でも、チームでも、人が集まれば、その力を発揮できるとは限らない。
単なる数の勝負でないところが、このゲームの面白いところ。

二人になったら、二倍以上の力が出るかというと、一倍以下になることもある。
チームでも、いない方がマシだと思えるような人がいて、モチベーションや生産力が落ちることがある。
チームの組み合わせを間違えると、こうしたことが起こるし、チームの中に、意識が統一されない、簡単な話『自分だけ良ければ、人が損してもいい』と考えている人がいると、チームの力は発揮できない。
夫婦でも同じで、『自分のために相手がいる』とか『自分の思い通りに相手が動くのが当然』とか、そうした考えは、力を落とす。

他人の利益を最大化することで、自分の利益は最大化できる

僕は基本的に『超自己中心的主義者』だ。
自分の利益を最大化することを念頭に生きている。
だが、そのために、人から奪ったり、傷つけたり、騙したりすることはない。

それは、自分の利益の最大化は、他人の利益をいかに最大化できるかにかかっているからだということを知っているからである。
これは、世の中でよく言われていることで、何も珍しいことではない。
『自利利他』とか『お客様第一主義』とか『人がして欲しいと思うことを、他の人にしなさい』とか、ペイフォワードなんかもそうだろうか?

大昔から言われていることだが、実行する人は少ないというだけ。
それも、見知らぬ他人、遠くの他人、その人の一部分だけを見て「何かしてあげたい」という感情を抱いて、相手のためにすることはあるが、意外と、パートナーのため、家族のため、チームのためという身近な人に対しては、やらない人が多い。

その理由は、どうしても嫌なところが見えてしまっているからである。

嫌なところが見えない他人の方が、気持ちよく、相手の利益のために出来てしまう。
しかし、それでは、結局、自分の利益の最大化にはつながりにくく、なんとなく『やってあげた感』に浸るだけで終わってしまうのだ。

そんなわけで、ズッキーニを見て、分裂は、新たに結合して、新しいものを生み出すゲームであることを悟った次第なのである。

-FARM:畑, MARK'S LIFE:日常, SEASONAL FOOD:季節の食べ物