木の上で実は熟す

スーパーマーケットで販売されている野菜や果実。
その多くが、熟す前に収穫され、配送されてくる間に熟す。

トマトは青いうちに収穫され、店頭に並ぶときには赤くなる。
みかんも、柿も、アボガド、バナナ、パイナップル・・・

そうして、並んだものを買い、食べる。
それが、本来の熟した味であると、もちろん、僕も思っていた。

しかし、山に来た。
トマトは、枝にくっついたまま赤くなるのを待って、赤い実をもいですぐに食べた。
農薬はもちろん、化学肥料も、買ってきた鶏糞や牛糞なども使わないで育ったトマト。

味が全く違った。
濃いとか、甘いとか、そう言った表現ではなく、ただ旨かった。

今年は、柿をハクビシンから守れた。
と言っても、前半には、まだ青く小さいうちからやられ、2/3ほどは食べられてしまったが、1/3程度は、電気柵を張り巡らしたことによって死守できたのだ。
柿の実を数えてみたら150個ほど実が付いていた。
スモモの時も、3/4はやられたが、なんとか1/4程度は死守し、それでも、その身の数は1,000個を超えていた。
パッと見では、それほど数がないように見えるのだが、実際に数えてみると結構な数がある。

しばらく前から、柿が色づいてきたので食べ始めていたが、いよいよ、本格的に美味しそうな色になってきた。
オレンジ色から、赤色になってきた。
食べてみると、ガッツリ甘い。
一般的に売っているものよりも、かなり甘い。
これは、生育状態が云々ということなく、木の上で熟していることによるものだと思う。

売っている柿は、こんなに色づいている状態での収穫は、実が柔らかくなってきてしまったりするので、当然、もっと色の浅い硬いうちに収穫して出荷する。
スモモも同様だった。
売っているスモモというのは、軽く握っても潰れることはない程度の硬さだが、木の上で熟したスモモは、まるでブドウのように甘酸っぱく、芳醇な香りを漂わせていた。
もちろん、そんな状態で売りには出せないので、本当に熟したスモモを食べるためには、木から採らなければならない。

そして、あまり自分には関心のなかったユズが熟した。
初年度の冬、木が生茂る暗い場所にひっそりと、ほっそりとたたずむゆずの木を見つけた。
木を見るだけでは、それがゆずだとはわからなかったが、実が一つ付いていたことで、その木がゆずの木であることがわかった。

せっかくなので、周りの余分な木を切り、草を刈って、ゆずの木が育ちやすいようにしてみたところ、翌年には、4個の実をつけた。
昨年は、20個ほど実がなった。
毎年、少しづつ実の数が増えていって嬉しかった。
そして、今年は、50個程度も実が付いた。

一人で50個も食べないし、せいぜい、シーズン中に食べるのは、5、6個というところ。
あとは、来た人に、持って帰ってもらっていた。

昨日、再開した薪割りイベントで、山友がうどんを用意してくれた。
そして、そこに、ゆずの皮をパラリ。

ゆずの香りが、ふわぁ〜っと香り、ものすごくいい匂い。
それでいて、食べてみると、青い時の皮の苦さは全くなく、熟したゆずの、爽やかで、落ち着いた香りが鼻に抜けた。

通常、ゆずの皮というのは、ほんのりと香りを楽しむためだけのものなのだろうが、ゆずを入れてパクリと食べ、また、ゆずの皮を削いで入れ、すぐにパクリと食べてしまい、本来、ゆず一個あれば十分余るような代物なのに、三人で、ゆず一個の皮では物足りないと言うほどに皮を食べまくった。
うまい、うますぎる、ゆずの皮。

これも、柿と同様、生育状態が良いなどと言うわけではなく、逆に、日陰が多く、生育状態としては悪い環境なのだが、きっと、木の上で熟すと言うのがポイントなのだろう。
そして、食べる直前にもいできて、すぐに食べることによって、香りが抜けずに、いただくことができたのだろうと思う。

今採れ野菜はもちろん、今採れ果実も、こんなに違いがあるとは思っていなかった。
これも、まさにプライスレス。
都会では、滅多に味わうことは出来ないし、レストランの椅子に座っていたのでは、どんなに田舎であっても、そうそう、今採れを食すことは難しい。

ここに木があることが、最大の重要ポイントなのだ。
畑だって、どんなに、自然栽培の畑が素晴らしく、美味しい野菜が採れたとしても、時間が経っていけば、野菜は息絶えていく。
果実も、熟していることが生きていて成熟していく姿のように見えていたが、実際、枝から離してしまった時点で、それは、死へと向かっているのに過ぎないと言うことなのだ。

お金の“関係の”ない世界は、すでにあった

また一つ、山で、プライスレスな経験をした。
お金のない世界が来るかもしれないのではなく、お金のない世界は、もともと、こんなような場所に存在していると言うことなのだろう。
ってことは、都会にお金のない世界が到来することはないかもしれない。
しかし、ど田舎は、昔から、お金のない世界ではないが、”ほとんど”お金のない世界が存在していたと言うことだ。

それでも、昔は、ど田舎でもお金が必要だったし、ど田舎こそ、キャッシュを稼がなければ、子供を学校にやれないとか、税金も払わなければならないとか、ガソリン代とか、農作機械代だとか、それなりにお金がかかっていたようだ。
だが、これからは、どうなるか?

お金というものを得る手段として、昔のように農業を行い、農業機械や農薬を農協から買わなければならないなんて時代は終わった。
農業であっても、機械を使わず手仕事でいいし、農薬など買わなくていい、収量が少なくても、直販でそれなりに高値で売ることも出来るようになり、収入が多くなくても、支出も少なく、そして、生活にもお金がかからない。
子供は少なく、そこは残念なところだが、それは、これからの政治に期待したい。

田舎特有の仕事でなくても、今や、オンラインでいくらでもお金を得ることはできる。
パソコン一台あり、ネットが繋がれば、世界中どこにいてもいい。
自分が生きていくくらいの稼ぎは、誰にでも得ることができる世の中になったのだ。

なので、お金のない世界が来るのではなく、お金の”関係の”ない世界は、すでに来ていると言っていいのである。

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