僕が君で、君が僕

今、僕は修行中である。
テーマは

「僕が君で、君が僕」だ

こりゃ何かというと、すべてが一つで一体であるという事を実際に体感するためにやっている、一つの実験のようなものなのだ。
すべてが一体というと、それは、真実かもしれないが、正直言って実感することは難しく思える。

そこで、昔から言われているゴールデンルール

「自分がして欲しいことを、他の人にしなさい」

こいつと、すべてが一体であるということは、同じことだと捉えることができる。
他人にすることは、すなわち、自分にすることと同じだということだ。

こうしたことは、格言のように世界に響いているが、実際には、よくわからない。
僕自身も、こういうことを聞いたのは、もう、ずっと昔のことで、何十年もの間、実際に、悟りのような境地にまで達したことはないし、うっすらと表面的に分かっても、実感することさえなかった。

しかし、僕は、最近、分かったことの一つに、実際、僕自身が周りの人たちに自分のことを話す時に使ってきた表現が、ゴールデンルールやすべてが一体であるということと同一の考え方に基づいていたことに気がついた。
それが

僕は、超自己中心的主義者である

と、いうことである。
僕は、常に自分のことしか考えない。
自分の利益を最大限にすることのみを考える。

この時、他人を分離した存在として考えていない。
他人を自分に対して影響のある存在として考えてきた。
それは、他者と一体であるという考え方に近い。

自分の利益を最大化するためには、他人の利益を最大化してやること

これが、僕の超自己中的主義の考え方である。
これだけ見ると、単に、他人に対して良いことをしてあげれば良いというように見えるが、実際には、僕は、僕の最大限の利益を考えているわけで、よく言う「いい人」ではないのである。

自分を犠牲にして他人に良くしてあげることはない

たまに、宗教を信仰している人に出会うと、自分を犠牲にして他人に奉仕している人がいるが、これは、自分と他人を分離して考えている。
宗教というものは、神と人は違うと教えているから、神と人は分離した存在ということになっている。
そのため、人と人も分離した存在であり、信仰しているものは救われ、そうでないものは救われないという定義になっている。

しかし、僕は、違っていた。
自分の周りの人々は、自分に対して多大な影響を与えると信じていた。
それが、一体であるという考え方だとは気がついていなかったが、実際には、一体であるという考え方をしていたのだ。

そんなわけで、今やっていることは、まずは、うちのヤギと犬に対して、

僕は君で、君は僕

という考え方に基づいて接するように心掛けている。

他人に対して行うことは、比較的簡単なのだが、身内や近い存在に対して「自分のして欲しいことを、相手にしてあげる」というのを、常に実行し続けるのは、なかなか難しい。
そこで、僕は、自分ちのヤギと犬に対して、まずは、完全に実行できるようにしようと実践中なのである。

僕の、超自己中心的主義は、実際にたやすく実行できたのは、写真スタジオをやっているときに『お客さんに対して最大の利益をもたらす』というところだった。
これは、代金を受け取るということが前提になっている以上、比較的たやすく実行できた。
しかし、存在が近くなればなるほど、この実行が困難だった。

少し前まで、3月のライオンというアニメを、ネットフリックスで観ていた。
その中に、いじめをきっかけに、地方の特別なスクールへ通うことになった少女の話が出ていた。
その子は、同年代の女子を目の前にすると、いじめの記憶が蘇り、体が硬くなってしまう現象に陥っていた。

そこで、スクールの先生がこう教えてくれていた。
「まずは、動物のお友達から、次に年上のお友達、最後に同年代のお友達を作りましょう」と。

僕も「まずは動物だな」
ってことで、うちのヤギと犬で訓練しているというわけである。

僕がヤギだったら?僕が犬だったら?
そう考えて、毎日接する。
今、ヤギならどうして欲しいか?
今、犬ならどうして欲しいか?
「ヒモ取って欲しい」とか「自由にさせて欲しい」とか「畑の野菜くれ〜」とか、いろいろとあるだろうが、まあ、そういうことではなく。

これを、人に対してやれるように、日常で、常態化させていく。
人と接しながら実行するには、自分の視点を相手の側に、常に置いていなければならない。
感覚的には、魂が体を抜けて、相手の魂と接するのか?会話するのか?その辺はわからないが、とにかく「ここ」ではなく「そっち」に移動することが必要な気がしている。

実は、この訓練を身につけておきたいのは、来月半ばに行われる、民事調停において発揮したいからである。
ゴルフ練習場のDゴルフパークとの調停だ。
予想では、DゴルフパークのI社長は出席せず、調停不成立で終わるという見方だが、もしも、出席するということであり、顔を合わせて会話をすることがあるとしたら、そこで、他者との分離を感じていてはうまくはいかない。
そうした敵対するような相手にこそ、一体であることや、ゴールデンルールに乗っ取った行動、言動が必要になる。

人生は舞台であることを忘れない

人生は舞台である。
比喩ではない。
真実だ。

登場人物は、すべて役者で、役を演じているに過ぎない。
舞台を降りれば、全員が仲間である。
悪役を演じてくれている人たちこそ、大切な名脇役なのだ。

と、こういうことを、頭では分かっていても、いざとなると忘れてしまうのだが。

人生を振り返ってみると、幾度となく悪役のような人物が現れた。
悪役が登場している時、怒り、恨み、憎しみ、いろんな感情が込み上げてきて、
「なぜ、こんなことになってしまうのか?」
「なぜ、この人は、こんなことをするのか?」
なんて、いろいろともがいていたけれど、過ぎ去ってしまえばなんということはなく、
結果として、そうした、悪役の登場によって、より自分自身が磨かれ成長していることに気が付く。

結局、悪役や悪い出来事というものは、ヤスリみたいなもので、トゲトゲしていて、痛くて、ぶしつけで、ガリガリしていて、不格好で、常にこちらを傷つけてくるのである。
やられている状態では、とてもいい奴には思えない。
しかし、終わってみれば、ヤスリ同様に、こっちは、ピカピカに磨かれているものなのである。

今まで、悪役に出会ったことで、そこをきっかけに新しい世界へ踏み出したことがほとんど・・・いや、全部そうだったかもしれない。
悪役が登場してくれたからこそ、いつも、自分自身のギアを一段上げる必要があって、結果、成長してきたのだろう。

悪役万歳!Welcome

また、いらんこと言ってしまった。。。( ̄▽ ̄;)

今の時期は、笹の葉がお気に入りのよう。
旬のものを食べるように出来ているらしい。



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