アドラー心理学「嫌われる勇気」

今日も雨である。

天気予報によると、四国は、非常に強い雨が降りつづくようなのだが、幸いにも、僕のいる松山・砥部あたりは、豪雨も災害自体も少ないらしい。

四国と言っても、豪雨に見舞われるのは、真ん中から下の、愛媛南部と高知県である。

四国の真ん中、東西に山々が連なり、そこが境となっているようなのだ。

強い雨が降り続いてはいるが、南の方は、もっと凄いんだろうなぁと思いながら、小屋の中でグデグデとしている。

そんなわけで、昨日から、一度読んでいるが、もう一度読みたくなった本、アドラー心理学を元に書かれた「嫌われる勇気」を読み返している。

以前読んだ際も、細かくノートに書き出して分析したり、都度、考えたりして読み進めていったが、今回は、また違う点についての気づきがあるような気がしている。

それは「神様とのおしゃべり」「悪魔とのおしゃべり」を読んだことによって、この人生の仕組みを違う方向から見ることが出来たような気がしているのと、先日、NHK「100分de名著」で観た事によって興味を持った「仏教」の影響もある。

このアドラー心理学も、100分de名著で取り上げられていて、解説者に、嫌われる勇気の著者である、岩見一郎さんが出ているので、番組を見る事によっても、理解が深まったような気がする。

1回〜4回あるけど、Youtubeの中でバラバラな感じだったので、ここにリンクを貼っておくよ。

第1回

第2回

第3回

第4回

4回自分と他者をを勇気づける



そして、さらに、法華経を図書館で借りてきた。

これに、GEOの宅配DVDレンタルもたくさん借りていて、この長雨の時間を過ごす予定なのだ。

今回、嫌われる勇気・幸せになる勇気を読んでいく時に、心がけていこうと思っていることがある。

それは、ブログにも書いたけど「この世界は、自分の舞台である」ということ。

他者が、何かを言ったり、行動したりする事に、自分の感情が動くようであるのなら、それは、自分が設定したシナリオに基づいているという事。

僕はなぜ、彼(彼女)に、こう言わせたかったのか?

僕はなぜ、彼(彼女)に、こうした行動をさせたかったのか?

現実世界の出来事に照らし合わせ、それを問いながら読み進めていきたいと思っているのだ。

「あの人は悪い、けど、自分は良い」そうした考えが自分の中にある。

だから、本を読んでも、自分はこれをちゃんとやろう、でも、他の人は出来てないけど・・・

と、そんな風に思っているところがあった。

しかし、他人の言動も行動も、すべて自分の書いたシナリオだとしたら、自分も他者も、一緒だと考えていかなければならない。

そうした中、一つ気が付いたことがあった。

人は皆平等だと思っている、そして、対等だとも思っているが、本当に、対等だとして接して来ただろうか?と思ったのだ。

「あの人は悪いけど、自分は良い」という考え方は、対等ではないのではないだろうか?

いつも、自分の方が優っていると考えていなかっただろうか?

そう思うと、僕自身が、人を対等には見ていなかったと気が付いた。

常に、人と比べて「自分は優っている」と優越感に浸っていた感じがしてならない。

では、どうすればいいか?

懸命に、「人は対等である」と呪文のように唱えても、そんなに簡単に思いを変えることはできない。

そこで、僕は、先にも書いたけど「この人の言動も行動も自分が書いたシナリオだ」と思うことで、自分と相手の優劣など関係なくなるのではないか?と、思ったのだ。

もちろん、何が正解なのかはわからない。

けど、僕自身が、そんな役をやってもらっていると考えることで、「あの人は悪いけど、自分は良い」などという考えはなくなってしまうような気がしたのだ。

だって、それは、役の中だけのことだけだから。

そうした役を担ってくれている人たちに感謝することはあっても、見下すことはない。

周りが、自分を引き立ててくれているのだから。

さらに、役の中には、自分の尊敬に値する「師」が出て来たり、ライバルが出て来たりするのは、ドラマを面白くするための要因だから、いろんな人々が登場するだろう。

だから、いつも、平等と見ることができなくても、役を担ってくれている事に感謝しようと考えてみた。

それが、どういう結果を生むのかはわからないが、今までとは違った現実への投影がなされるのを期待してみようと思うのだ。


via Mark な 人生



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